この話は、辻村深月シリーズの中で特に好きな話だ。
「子どもたちは夜と遊ぶ」から2年後の話である。
単体として私は大好きだが、順番に読むともっと面白い。
ぼくのメジャースプーン (講談社文庫)
簡単なあらすじ
目をそらしたくなるような、うさぎ惨殺事件が小4の「ぼく」の学校で起きた。
その第一発見者であるぼくの幼馴染「ふみちゃん」は、深く傷つき声を失う。
ぼくは生まれながらにもっている不思議な「力」を武器に、犯人の市川雄太に戦いを挑む。
悪意の存在を考えさせられた一冊
うさぎ殺しの犯人は、どうしようもない悪意をもっていた。人の気持ちがわからない。
自分のことしか考えられない。誰かを傷つけても平気でいる。そんな悪意の前で人はあまりに無力だ。
悪意とは何か?先天性か、後天性か。なぜ、うさぎを殺して平然としていられるのか?
「ぼく」には理解できないし、私にも想像ができない。
きっと、自分にないものをもっている人のことを想像するだけ無駄なのだろう。
でも悪意の存在をしっかり受け止め、見て見ぬ振りをしないことが対抗への第一歩だと思う。
人間は、自分のためにしか涙を流せないのか?
これは、作品の中で繰り返し問われてきた疑問だ。
人間はもともと自己中心的で、他人のために泣くことができない。
例えば誰かが死んで泣いているように見えても、その人を失う自分が可哀想だから泣いているだけ。
確かに、と納得した。なんで悲しいのだろう、なんで涙が出るのだろう。
突き詰めて考えると、どの場合も全て自分のためだ。
しかし、私はそれでいいのではないかと思う。
物語の終盤で秋山教授も言っているように、たとえ、泣く理由が自分のためであっても「その人に幸せになってほしくて、その人が傷つくのが嫌で泣いている」という事実に変わりはない。
自分がいなくなることが悲しいのだとわかったら、そのいなくなる誰かもきっと嬉しい。
自分が悲しいことを悲しいと思ってくれる誰かの存在は、人生の支えになる。そう私も信じている。
最後に
この話は、小学生が主人公なのに関わらずとても深い話だった。
「ぼく」がもつ不思議な力という非現実なものを扱うのも小説ならではで面白い。
読んでよかったと思えた一冊だった。
ぼくのメジャースプーン (講談社文庫)
コメント